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テムズの戦いの勝利

次のテストには絶対でてきます。
確実ですので予習しておこうっと。


テムズの戦いはアメリカ軍の決定的な勝利に終り、米英戦争の残り期間、アメリカ軍が北西部領土を支配し続けることになった。しかし、ハリソンはこの勝利を次への突破口にすることもなく、モラビアタウン焼き討ち後はデトロイトまで引き揚げた。この地域の前線は戦争終結まで静かなままになった。

ハリソンの人気があがり、後にアメリカ合衆国大統領に選ばれることになった。リチャード・メンター・ジョンソンは、テカムセを殺したと信じられたことを利用し、アメリカ合衆国副大統領になった。

プロクターは後に憶病さをさらけ出したとして軍法会議に掛けられ、指揮を外された。歴史家は幾分プロクターに同情的であり、エリー湖がアメリカ軍に支配されていたことと、デトロイト前線には限られた戦力と物資しか無かったことをその根拠としている。テカムセの戦死は、テカムセが作り上げたインディアンの同盟に大きな打撃となり、その後の戦闘に対しては実質的に消滅した。


1813年9月、オリバー・ハザード・ペリー指揮するアメリカ海軍がエリー湖の湖上戦で決定的勝利を奪った。イギリス軍のヘンリー・プロクター将軍は補給線を失うことをおそれ、テカムセの助言も容れずに、マルデン砦から撤退を始めた。アメリカ軍のウィリアム・ハリソン将軍は、プロクターを追ってアッパー・カナダに入った。テカムセは何度もプロクターを説得してアメリカ軍と向き合わせようとした。最後はプロクターが折れて、テムズ川のモラビアタウンでハリソンと対峙することになった。


戦力
ウィリアム・ハリソンの軍隊は少なくとも3,500名の歩兵と騎兵がいた。その中にはダンカン・マッカーサーとルイス・カス将軍の下にそれぞれ正規歩兵部隊がいた。リチャード・メンター・ジョンソン大佐がケンタッキー騎兵を率いた。ケンタッキー民兵の5部隊は、アメリカ独立戦争の英雄で63歳のアイザック・シェルビーが率いた。ジョンソン指揮下の志願兵の多くはレーズン川の出身であり、「レーズンを忘れるな」をスローガンに徴兵されていた。

プロクター軍には約800名の正規兵とテカムセが率いる約500名のインディアンがいた。イギリスの兵士は徐々に士気を失いつつあり、プロクターがなかなか踏みとどまって戦おうとしなかったので、テカムセのインディアン戦士は辛抱しきれなくなっていた。プロクターはインディアンによる反乱を恐れていた。イギリス軍はハリソン軍から逃げるために長く急速な行軍を強いられたので、食料の配給も半分に減っていた。ハリソン軍は前進するにつれてイギリス軍の落ちこぼれに会う様になりこれを捕まえていった。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月22日 17:46に投稿されたエントリーのページです。

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